ちょっと短めな話。
弟との二人旅の途中。出会った松原さんの事は〜最大の出会い〜を参照して下さい。
そこで沖縄に連れて行ってもらった僕ら。
弾き語りを路上でしながらの旅だったのでもちろんギターを沖縄にも持って行ってまして歌う場所を一日目の夜に探しました。
国際通りを歩いていると弾き語りをしている兄ちゃんを発見。
話しかけてみる。
横浜出身、沖縄在住の僕らより年上の人でなんと沖縄に遊びに来て気に入ったからとそのまま移住。沖縄で結婚したそうな。
色んな人がいるな〜と思いつつ
「明日、僕ら路上やるんですよ」なんて話してたわけです。
そして次の日の夜。
国際通りで路上をやっているとその兄ちゃんと奥さんが見に来てくれました。
僕らの歌を聞いてくれたし拍手もしてくれたしとにかく楽しい雰囲気の沖縄路上。
奥さんがどこかで生ビールを買ってきてくれて一緒に呑んじゃったりして。
特に連絡先を聞く事も無く別れたので今、どうしてるかわからないけど沖縄の話が出るといつも思い出す。
僕の沖縄好きはこういう思い出の積み重ねだろうね。
あ〜また沖縄の野外でビール呑みたいなぁ〜。
2007年02月12日
2007年02月09日
覚えてないけど・・・
弟との二人旅。
当時、僕は22歳。弟は20歳。
僕は金髪のボサボサ頭に髭。弟は肩にかかるぐらいの長髪。
ハッキリ言って声をかけたくない二人組。
僕は自分達に対してそう思いながら旅をしていました。
(だったらもっとまともな格好してろよってのは置いといてね)
そんな事思ってるのに人との交流を求めてるわけですから厄介ですよね。
でも、意外と僕らには声をかけてくれる人が多かった気がします。世の中捨てたもんじゃないんですね。
そんな人たちの中で僕が一番、「うわ、この人、ホント純粋なんだろうな」って思った人が居ました。
僕らが本州を離れ、四国を一周し四国から九州に渡って熊本市(多分、下通り?)で歌った時の事。
普段のように商店街を見つけ歌いだしました。
まぁ〜その日は特別何事もなく歌ってました。初めて訪れた九州の地で歌えた事の喜びを噛み締めながら歌ってました。
もうぼちぼち終わるかい?って頃だったと思います。
僕がウルフルズを熱唱していると一人の女の子が寄ってきてもっとウルフルズが聞きたいと言ってきました。
リクエストに応えウルフルズを熱唱。
女の子は大学一年生で歓迎会の帰り道だったそうです。
「お兄さん達、ちゃんと食べてますか?」
「うちに来たら食べさせてあげますよ」
女の子がそんな事を言い出したわけです。
その子は一人暮らし。実家を出て間もない頃。
若い女の子の部屋に金髪、髭とロンゲが行くなんて・・・
身の危険を感じずにはいられないでしょ?
僕らには断る理由が全く無いので快くお邪魔させてもらいました。
約束通り彼女はごはんを作ってくれて食べさせてくれてベッドまで使わせてくれました。
どこのどんな奴かもわからない、見た目には近寄りがたいであろう男二人を部屋に招く。
彼女の目に僕らがどう映っていたんだろう。
彼女はきっと純粋に僕らを「おもてなししたかった」んだろうな。
純粋に「力になってやろう」って思ったんだろうな。
翌日、彼女はおにぎりを作ってくれた。
3人で海の見える山に登り海を眺めながらおにぎりを食べた。
天気がよくてすごく気持ちが良かった。
今、彼女はどうしてるだろう。
7年前、多分18歳だった彼女。今はもう25歳。
幸せにしているだろうか・・・
今となっては名前も覚えてないけど・・・
僕は時々、彼女のベッドで寝た事を思い出す。
当時、僕は22歳。弟は20歳。
僕は金髪のボサボサ頭に髭。弟は肩にかかるぐらいの長髪。
ハッキリ言って声をかけたくない二人組。
僕は自分達に対してそう思いながら旅をしていました。
(だったらもっとまともな格好してろよってのは置いといてね)
そんな事思ってるのに人との交流を求めてるわけですから厄介ですよね。
でも、意外と僕らには声をかけてくれる人が多かった気がします。世の中捨てたもんじゃないんですね。
そんな人たちの中で僕が一番、「うわ、この人、ホント純粋なんだろうな」って思った人が居ました。
僕らが本州を離れ、四国を一周し四国から九州に渡って熊本市(多分、下通り?)で歌った時の事。
普段のように商店街を見つけ歌いだしました。
まぁ〜その日は特別何事もなく歌ってました。初めて訪れた九州の地で歌えた事の喜びを噛み締めながら歌ってました。
もうぼちぼち終わるかい?って頃だったと思います。
僕がウルフルズを熱唱していると一人の女の子が寄ってきてもっとウルフルズが聞きたいと言ってきました。
リクエストに応えウルフルズを熱唱。
女の子は大学一年生で歓迎会の帰り道だったそうです。
「お兄さん達、ちゃんと食べてますか?」
「うちに来たら食べさせてあげますよ」
女の子がそんな事を言い出したわけです。
その子は一人暮らし。実家を出て間もない頃。
若い女の子の部屋に金髪、髭とロンゲが行くなんて・・・
身の危険を感じずにはいられないでしょ?
僕らには断る理由が全く無いので快くお邪魔させてもらいました。
約束通り彼女はごはんを作ってくれて食べさせてくれてベッドまで使わせてくれました。
どこのどんな奴かもわからない、見た目には近寄りがたいであろう男二人を部屋に招く。
彼女の目に僕らがどう映っていたんだろう。
彼女はきっと純粋に僕らを「おもてなししたかった」んだろうな。
純粋に「力になってやろう」って思ったんだろうな。
翌日、彼女はおにぎりを作ってくれた。
3人で海の見える山に登り海を眺めながらおにぎりを食べた。
天気がよくてすごく気持ちが良かった。
今、彼女はどうしてるだろう。
7年前、多分18歳だった彼女。今はもう25歳。
幸せにしているだろうか・・・
今となっては名前も覚えてないけど・・・
僕は時々、彼女のベッドで寝た事を思い出す。
2007年01月28日
最大の出会い〜その5〜
〜その4〜の続き。4を読んで居ない方は↓へ。
さてさて。さすがきまぐれ。一週間放置してしまいました。
きっともう見るの忘れているでしょう。それぐらいが良いんです。
で、忘れてた時に「ふっ」と思い出して見てみる。
それぐらいが僕は好きなんです。
そして「ふっ」に対しても「よぅ」と言って上げられる人でありたいと思っているし、そうしてくれる人が好きです。
さて話がそれました。久しぶりすぎてこのブログの趣旨を忘れる所でした。
続き、行きます。
沖永良部島でおよそ20日間。
当時もそう思ったけど今、思い出してみても
「そんなに居たっけ?」
と思ってしまうぐらいあっと言う間でした。
当ても無く旅をしていた我々兄弟はこのままではいつまで経ってもこの島から出られない、なんなら居心地良いし住み着いちゃうか?ってな勢いになりそうだったので本来の旅に戻ろうとある日を出発の日に決めました。
決めてからの数日間、クレープ屋さん前でのライブは相変わらず高校生が来てくれていて楽しくやっていました。
しかしながら楽しさの裏には数日で島を離れる寂しさもあり。写真を一緒に撮る事が多くなっていました。
そして島を出る二日前、クレープ屋さん前での最後のライブ。
そこで出発前日、ラストライブを島にある大型店、コープの前で行う事を発表。島に来てからほとんどをクレープ屋さんで歌っていた僕らにとって最後に別の場所で歌う、と言うのはあまり気が乗らなかったのですが田中さんがセッティングしてくれたし出発前日はクレープ屋さんが定休日だったので仕方なくそのコープの前で歌う事にしました。
さて、沖永良部島でのラストライブ・・・当日・・・
・・・雨・・・
僕らとしてはコープで歌う魅力を感じていなかったんでしょう。残念な気持ちとほっとした気持ちもあったような気がします。
午後になっても止まない雨。
弟と二人、「こりゃ今日は中止だね」と話ておりました。
すると一本の電話。
「あんたら大変だよ。コープの前に高校生が集まってるって。あんたらどうするの?」
【雨だから中止】
そんな考えは僕らにしかなかったのかもしれません。
島の子達は僕らが歌いに来るのを待っていてくれたのでした。
しかし、雨では歌えません。思案しても島に来て20日の僕らにはどうする事もできませんでした。
しかし、僕らには産まれも育ちも沖永良部島の強力なマネージャーが居ましたし島の小学校の先生が義兄。何も出来ないわけがありません。
その日の夜、行われる予定だった送別会の会場、小さな公民館をお借りできる時間を早めていただき高校生達にはそこに再度集まってもらいました。
小さな島の小さな公民館での本当に短い時間のライブ。
二人で約30分。歌いました。
お互いのオリジナル曲、島でリクエストされた曲、
山崎まさよしさんの「one more time one more chance」
公民館に集まってくれたのは5、6名でした。
中には涙を流しながら聞いてくれる子も居ました。
僕が最後に歌ったオリジナル曲。「秘密の話」は明るくて前向きな曲。
〜雨の降る日は、実は星も降ってて
その事に皆は まだ気付いてない〜
後にも先にもこの曲で涙を流したのはその子だけだったなぁ。
そんな思い出を残し、写真もいっぱい撮って色々プレゼントももらって夜になってしまったので高校生とはお別れ。
そのままその公民館にて送別会が行われました。
島でお世話になった方々が来てくれました。
こちらも短い時間でしたが・・・楽しい時間だから短く感じたのかもしれませんね。
そして翌日、台風一号の影響で太平洋側の港に着岸できないと言う事で東シナ海側の港へ。
「何もこんな日に帰らんでも・・・」
田中さんには最後まで心配を掛けてしまったのかもしれません。
しかしながら我々は行かなければならないんです。
ここでその言葉に甘えたらダメなんです。
理由はわかりません。ただダメだと思ったからです。
(真実に理由なんか無い、って昔書いた詞にあったなぁ。後で読んで自分でビックリしたっけ。)
さてさて昨日、散々別れを惜しんだ高校生達、やっぱり来てくれました。
中には授業をさぼって来てくれた子もいたり。太平洋側の港に行って慌ててこちらに来てくれた子もいたり。
なんで皆、あんなに良い子なんだろう。
乗船券を松原さんに購入してもらい(最後まで本当に面倒見てくれました)船に乗る僕ら。
なんだかすごく照れくさかったけど紙テープなんか投げちゃったりして。
普段、物凄く照れ屋で感情を喜怒哀楽の怒以外はほとんど表に出さない弟が僕の横で馬鹿みたいにでかい声で
「また来るぞー!!」
と叫んでいたのがつい最近の事のように今でも鮮明に覚えています。
僕はそんな弟を見ながら旅の意味を噛み締め、
心の中でグッと「また来るぞ」と思ったのであります。
これで最大の出会いシリーズ終了です。
で、気になるのが旅の終わりでしょ?
この後、僕らは鹿児島市内、思い出の天文館通りでもう一度歌い、翌日、宮崎に突入。
そこで弟のギターが調子を悪くし弾き語りを続けられない為、旅を終える事にしたのでした。
島の人と触れ合い、皆で何か一つの事をやりたい!と思えるようになった弟は地元に帰るとすぐにバンドを結成。
アマチュアではありましたが各地のライブハウスを転々と出来る実力をつけたのでした。
そして僕はと言うと2年後、バンドが順調な弟を置いて一人で一ヶ月間、北海道の旅をする事になるのです。
松原さんとの出会いが沖縄、そして沖永良部島へと連れていってくれました。そしてその島で多くの人と出会い、特に田中さんには大変お世話になりました。
さて皆さんがきっと抱いているであろう疑問、
『その二人と君らは今どうなってるんだ?』
ご心配なく。もちろん、今でも交流があります。
「ふっ」と思い出した時に「よぅ」と言ってくれます。
今年の年賀状で松原さんから結婚の報告がありました。
遠く離れていてもそこには「ふっ」「よぅ」の関係が今でも成り立っているんです。
田中さんからは「息子が中学生になって訳のわからん音楽を聴くようになって・・・私にはもうついていけないわ」なんて電話がきたり。
娘が高校進学で島を離れ寮生活をしている時には母親・父親には素直に出来ないであろう相談を僕が聞いてあげる事もありました。
そのうち、息子あたりがきっと僕の所に遊びに来る日があるんじゃないかと心待ちにしているんです。
その時は思いっきり、恩送りをしてやろうと企んでおります。
さて長編が終了しました。
読んでくれた皆様、ありがとうございました。
次回は・・・何を書こうかな・・・
それも気まぐれと言う事で。
さてさて。さすがきまぐれ。一週間放置してしまいました。
きっともう見るの忘れているでしょう。それぐらいが良いんです。
で、忘れてた時に「ふっ」と思い出して見てみる。
それぐらいが僕は好きなんです。
そして「ふっ」に対しても「よぅ」と言って上げられる人でありたいと思っているし、そうしてくれる人が好きです。
さて話がそれました。久しぶりすぎてこのブログの趣旨を忘れる所でした。
続き、行きます。
沖永良部島でおよそ20日間。
当時もそう思ったけど今、思い出してみても
「そんなに居たっけ?」
と思ってしまうぐらいあっと言う間でした。
当ても無く旅をしていた我々兄弟はこのままではいつまで経ってもこの島から出られない、なんなら居心地良いし住み着いちゃうか?ってな勢いになりそうだったので本来の旅に戻ろうとある日を出発の日に決めました。
決めてからの数日間、クレープ屋さん前でのライブは相変わらず高校生が来てくれていて楽しくやっていました。
しかしながら楽しさの裏には数日で島を離れる寂しさもあり。写真を一緒に撮る事が多くなっていました。
そして島を出る二日前、クレープ屋さん前での最後のライブ。
そこで出発前日、ラストライブを島にある大型店、コープの前で行う事を発表。島に来てからほとんどをクレープ屋さんで歌っていた僕らにとって最後に別の場所で歌う、と言うのはあまり気が乗らなかったのですが田中さんがセッティングしてくれたし出発前日はクレープ屋さんが定休日だったので仕方なくそのコープの前で歌う事にしました。
さて、沖永良部島でのラストライブ・・・当日・・・
・・・雨・・・
僕らとしてはコープで歌う魅力を感じていなかったんでしょう。残念な気持ちとほっとした気持ちもあったような気がします。
午後になっても止まない雨。
弟と二人、「こりゃ今日は中止だね」と話ておりました。
すると一本の電話。
「あんたら大変だよ。コープの前に高校生が集まってるって。あんたらどうするの?」
【雨だから中止】
そんな考えは僕らにしかなかったのかもしれません。
島の子達は僕らが歌いに来るのを待っていてくれたのでした。
しかし、雨では歌えません。思案しても島に来て20日の僕らにはどうする事もできませんでした。
しかし、僕らには産まれも育ちも沖永良部島の強力なマネージャーが居ましたし島の小学校の先生が義兄。何も出来ないわけがありません。
その日の夜、行われる予定だった送別会の会場、小さな公民館をお借りできる時間を早めていただき高校生達にはそこに再度集まってもらいました。
小さな島の小さな公民館での本当に短い時間のライブ。
二人で約30分。歌いました。
お互いのオリジナル曲、島でリクエストされた曲、
山崎まさよしさんの「one more time one more chance」
公民館に集まってくれたのは5、6名でした。
中には涙を流しながら聞いてくれる子も居ました。
僕が最後に歌ったオリジナル曲。「秘密の話」は明るくて前向きな曲。
〜雨の降る日は、実は星も降ってて
その事に皆は まだ気付いてない〜
後にも先にもこの曲で涙を流したのはその子だけだったなぁ。
そんな思い出を残し、写真もいっぱい撮って色々プレゼントももらって夜になってしまったので高校生とはお別れ。
そのままその公民館にて送別会が行われました。
島でお世話になった方々が来てくれました。
こちらも短い時間でしたが・・・楽しい時間だから短く感じたのかもしれませんね。
そして翌日、台風一号の影響で太平洋側の港に着岸できないと言う事で東シナ海側の港へ。
「何もこんな日に帰らんでも・・・」
田中さんには最後まで心配を掛けてしまったのかもしれません。
しかしながら我々は行かなければならないんです。
ここでその言葉に甘えたらダメなんです。
理由はわかりません。ただダメだと思ったからです。
(真実に理由なんか無い、って昔書いた詞にあったなぁ。後で読んで自分でビックリしたっけ。)
さてさて昨日、散々別れを惜しんだ高校生達、やっぱり来てくれました。
中には授業をさぼって来てくれた子もいたり。太平洋側の港に行って慌ててこちらに来てくれた子もいたり。
なんで皆、あんなに良い子なんだろう。
乗船券を松原さんに購入してもらい(最後まで本当に面倒見てくれました)船に乗る僕ら。
なんだかすごく照れくさかったけど紙テープなんか投げちゃったりして。
普段、物凄く照れ屋で感情を喜怒哀楽の怒以外はほとんど表に出さない弟が僕の横で馬鹿みたいにでかい声で
「また来るぞー!!」
と叫んでいたのがつい最近の事のように今でも鮮明に覚えています。
僕はそんな弟を見ながら旅の意味を噛み締め、
心の中でグッと「また来るぞ」と思ったのであります。
これで最大の出会いシリーズ終了です。
で、気になるのが旅の終わりでしょ?
この後、僕らは鹿児島市内、思い出の天文館通りでもう一度歌い、翌日、宮崎に突入。
そこで弟のギターが調子を悪くし弾き語りを続けられない為、旅を終える事にしたのでした。
島の人と触れ合い、皆で何か一つの事をやりたい!と思えるようになった弟は地元に帰るとすぐにバンドを結成。
アマチュアではありましたが各地のライブハウスを転々と出来る実力をつけたのでした。
そして僕はと言うと2年後、バンドが順調な弟を置いて一人で一ヶ月間、北海道の旅をする事になるのです。
松原さんとの出会いが沖縄、そして沖永良部島へと連れていってくれました。そしてその島で多くの人と出会い、特に田中さんには大変お世話になりました。
さて皆さんがきっと抱いているであろう疑問、
『その二人と君らは今どうなってるんだ?』
ご心配なく。もちろん、今でも交流があります。
「ふっ」と思い出した時に「よぅ」と言ってくれます。
今年の年賀状で松原さんから結婚の報告がありました。
遠く離れていてもそこには「ふっ」「よぅ」の関係が今でも成り立っているんです。
田中さんからは「息子が中学生になって訳のわからん音楽を聴くようになって・・・私にはもうついていけないわ」なんて電話がきたり。
娘が高校進学で島を離れ寮生活をしている時には母親・父親には素直に出来ないであろう相談を僕が聞いてあげる事もありました。
そのうち、息子あたりがきっと僕の所に遊びに来る日があるんじゃないかと心待ちにしているんです。
その時は思いっきり、恩送りをしてやろうと企んでおります。
さて長編が終了しました。
読んでくれた皆様、ありがとうございました。
次回は・・・何を書こうかな・・・
それも気まぐれと言う事で。
最大の出会い〜その5〜
〜その4〜の続き。4を読んで居ない方は↓へ。
さてさて。さすがきまぐれ。一週間放置してしまいました。
きっともう見るの忘れているでしょう。それぐらいが良いんです。
で、忘れてた時に「ふっ」と思い出して見てみる。
それぐらいが僕は好きなんです。
そして「ふっ」に対しても「よぅ」と言って上げられる人でありたいと思っているし、そうしてくれる人が好きです。
さて話がそれました。久しぶりすぎてこのブログの趣旨を忘れる所でした。
続き、行きます。
沖永良部島でおよそ20日間。
当時もそう思ったけど今、思い出してみても
「そんなに居たっけ?」
と思ってしまうぐらいあっと言う間でした。
当ても無く旅をしていた我々兄弟はこのままではいつまで経ってもこの島から出られない、なんなら居心地良いし住み着いちゃうか?ってな勢いになりそうだったので本来の旅に戻ろうとある日を出発の日に決めました。
決めてからの数日間、クレープ屋さん前でのライブは相変わらず高校生が来てくれていて楽しくやっていました。
しかしながら楽しさの裏には数日で島を離れる寂しさもあり。写真を一緒に撮る事が多くなっていました。
そして島を出る二日前、クレープ屋さん前での最後のライブ。
そこで出発前日、ラストライブを島にある大型店、コープの前で行う事を発表。島に来てからほとんどをクレープ屋さんで歌っていた僕らにとって最後に別の場所で歌う、と言うのはあまり気が乗らなかったのですが田中さんがセッティングしてくれたし出発前日はクレープ屋さんが定休日だったので仕方なくそのコープの前で歌う事にしました。
さて、沖永良部島でのラストライブ・・・当日・・・
・・・雨・・・
僕らとしてはコープで歌う魅力を感じていなかったんでしょう。残念な気持ちとほっとした気持ちもあったような気がします。
午後になっても止まない雨。
弟と二人、「こりゃ今日は中止だね」と話ておりました。
すると一本の電話。
「あんたら大変だよ。コープの前に高校生が集まってるって。あんたらどうするの?」
田中さんからでした。
【雨だから中止】
そんな考えは僕らにしかなかったのかもしれません。
島の子達は僕らが歌いに来るのを待っていてくれたのでした。
しかし、雨では歌えません。思案しても島に来て20日の僕らにはどうする事もできませんでした。
しかし、僕らには産まれも育ちも沖永良部島の強力なマネージャーが居ましたし島の小学校の先生が義兄。何も出来ないわけがありません。
その日の夜、行われる予定だった送別会の会場、小さな公民館をお借りできる時間を早めていただき高校生達にはそこに再度集まってもらいました。
小さな島の小さな公民館での本当に短い時間のライブ。
二人で約30分。歌いました。
お互いのオリジナル曲、島でリクエストされた曲、
山崎まさよしさんの「one more time one more chance」
公民館に集まってくれたのは5、6名でした。
中には涙を流しながら聞いてくれる子も居ました。
僕が最後に歌ったオリジナル曲。「秘密の話」は明るくて前向きな曲。
〜雨の降る日は、実は星も降ってて
その事に皆は まだ気付いてない〜
後にも先にもこの曲で涙を流したのはその子だけだったなぁ。
そんな思い出を残し、写真もいっぱい撮って色々プレゼントももらって夜になってしまったので高校生とはお別れ。
そのままその公民館にて送別会が行われました。
島でお世話になった方々が来てくれました。
こちらも短い時間でしたが・・・楽しい時間だから短く感じたのかもしれませんね。
そして翌日、台風一号の影響で太平洋側の港に着岸できないと言う事で東シナ海側の港へ。
「何もこんな日に帰らんでも・・・」
田中さんには最後まで心配を掛けてしまったのかもしれません。
しかしながら我々は行かなければならないんです。
ここでその言葉に甘えたらダメなんです。
理由はわかりません。ただダメだと思ったからです。
(真実に理由なんか無い、って昔書いた詞にあったなぁ。後で読んで自分でビックリしたっけ。)
さてさて昨日、散々別れを惜しんだ高校生達、やっぱり来てくれました。
中には授業をさぼって来てくれた子もいたり。太平洋側の港に行って慌ててこちらに来てくれた子もいたり。
なんで皆、あんなに良い子なんだろう。
乗船券を松原さんに購入してもらい(最後まで本当に面倒見てくれました)船に乗る僕ら。
なんだかすごく照れくさかったけど紙テープなんか投げちゃったりして。
普段、物凄く照れ屋で感情を喜怒哀楽の怒以外はほとんど表に出さない弟が僕の横で馬鹿みたいにでかい声で
「また来るぞー!!」
と叫んでいたのがつい最近の事のように今でも鮮明に覚えています。
僕はそんな弟を見ながら旅の意味を噛み締め、
心の中でグッと「また来るぞ」と思ったのであります。
これで最大の出会いシリーズ終了です。
で、気になるのが旅の終わりでしょ?
この後、僕らは鹿児島市内、思い出の天文館通りでもう一度歌い、翌日、宮崎に突入。
そこで弟のギターが調子を悪くし弾き語りを続けられない為、旅を終える事にしたのでした。
島の人と触れ合い、皆で何か一つの事をやりたい!と思えるようになった弟は地元に帰るとすぐにバンドを結成。
アマチュアではありましたが各地のライブハウスを転々と出来る実力をつけたのでした。
そして僕はと言うと2年後、バンドが順調な弟を置いて一人で一ヶ月間、北海道の旅をする事になるのです。
松原さんとの出会いが沖縄、そして沖永良部島へと連れていってくれました。そしてその島で多くの人と出会い、特に田中さんには大変お世話になりました。
さて皆さんがきっと抱いているであろう疑問、
『その二人と君らは今どうなってるんだ?』
ご心配なく。もちろん、今でも交流があります。
「ふっ」と思い出した時に「よぅ」と言ってくれます。
今年の年賀状で松原さんから結婚の報告がありました。
遠く離れていてもそこには「ふっ」「よぅ」の関係が今でも成り立っているんです。
田中さんからは「息子が中学生になって訳のわからん音楽を聴くようになって・・・私にはもうついていけないわ」なんて電話がきたり。
娘が高校進学で島を離れ寮生活をしている時には母親・父親には素直に出来ないであろう相談を僕が聞いてあげる事もありました。
そのうち、息子あたりがきっと僕の所に遊びに来る日があるんじゃないかと心待ちにしているんです。
その時は思いっきり、恩送りをしてやろうと企んでおります。
さて長編が終了しました。
読んでくれた皆様、ありがとうございました。
次回は・・・何を書こうかな・・・
それも気まぐれと言う事で。
さてさて。さすがきまぐれ。一週間放置してしまいました。
きっともう見るの忘れているでしょう。それぐらいが良いんです。
で、忘れてた時に「ふっ」と思い出して見てみる。
それぐらいが僕は好きなんです。
そして「ふっ」に対しても「よぅ」と言って上げられる人でありたいと思っているし、そうしてくれる人が好きです。
さて話がそれました。久しぶりすぎてこのブログの趣旨を忘れる所でした。
続き、行きます。
沖永良部島でおよそ20日間。
当時もそう思ったけど今、思い出してみても
「そんなに居たっけ?」
と思ってしまうぐらいあっと言う間でした。
当ても無く旅をしていた我々兄弟はこのままではいつまで経ってもこの島から出られない、なんなら居心地良いし住み着いちゃうか?ってな勢いになりそうだったので本来の旅に戻ろうとある日を出発の日に決めました。
決めてからの数日間、クレープ屋さん前でのライブは相変わらず高校生が来てくれていて楽しくやっていました。
しかしながら楽しさの裏には数日で島を離れる寂しさもあり。写真を一緒に撮る事が多くなっていました。
そして島を出る二日前、クレープ屋さん前での最後のライブ。
そこで出発前日、ラストライブを島にある大型店、コープの前で行う事を発表。島に来てからほとんどをクレープ屋さんで歌っていた僕らにとって最後に別の場所で歌う、と言うのはあまり気が乗らなかったのですが田中さんがセッティングしてくれたし出発前日はクレープ屋さんが定休日だったので仕方なくそのコープの前で歌う事にしました。
さて、沖永良部島でのラストライブ・・・当日・・・
・・・雨・・・
僕らとしてはコープで歌う魅力を感じていなかったんでしょう。残念な気持ちとほっとした気持ちもあったような気がします。
午後になっても止まない雨。
弟と二人、「こりゃ今日は中止だね」と話ておりました。
すると一本の電話。
「あんたら大変だよ。コープの前に高校生が集まってるって。あんたらどうするの?」
田中さんからでした。
【雨だから中止】
そんな考えは僕らにしかなかったのかもしれません。
島の子達は僕らが歌いに来るのを待っていてくれたのでした。
しかし、雨では歌えません。思案しても島に来て20日の僕らにはどうする事もできませんでした。
しかし、僕らには産まれも育ちも沖永良部島の強力なマネージャーが居ましたし島の小学校の先生が義兄。何も出来ないわけがありません。
その日の夜、行われる予定だった送別会の会場、小さな公民館をお借りできる時間を早めていただき高校生達にはそこに再度集まってもらいました。
小さな島の小さな公民館での本当に短い時間のライブ。
二人で約30分。歌いました。
お互いのオリジナル曲、島でリクエストされた曲、
山崎まさよしさんの「one more time one more chance」
公民館に集まってくれたのは5、6名でした。
中には涙を流しながら聞いてくれる子も居ました。
僕が最後に歌ったオリジナル曲。「秘密の話」は明るくて前向きな曲。
〜雨の降る日は、実は星も降ってて
その事に皆は まだ気付いてない〜
後にも先にもこの曲で涙を流したのはその子だけだったなぁ。
そんな思い出を残し、写真もいっぱい撮って色々プレゼントももらって夜になってしまったので高校生とはお別れ。
そのままその公民館にて送別会が行われました。
島でお世話になった方々が来てくれました。
こちらも短い時間でしたが・・・楽しい時間だから短く感じたのかもしれませんね。
そして翌日、台風一号の影響で太平洋側の港に着岸できないと言う事で東シナ海側の港へ。
「何もこんな日に帰らんでも・・・」
田中さんには最後まで心配を掛けてしまったのかもしれません。
しかしながら我々は行かなければならないんです。
ここでその言葉に甘えたらダメなんです。
理由はわかりません。ただダメだと思ったからです。
(真実に理由なんか無い、って昔書いた詞にあったなぁ。後で読んで自分でビックリしたっけ。)
さてさて昨日、散々別れを惜しんだ高校生達、やっぱり来てくれました。
中には授業をさぼって来てくれた子もいたり。太平洋側の港に行って慌ててこちらに来てくれた子もいたり。
なんで皆、あんなに良い子なんだろう。
乗船券を松原さんに購入してもらい(最後まで本当に面倒見てくれました)船に乗る僕ら。
なんだかすごく照れくさかったけど紙テープなんか投げちゃったりして。
普段、物凄く照れ屋で感情を喜怒哀楽の怒以外はほとんど表に出さない弟が僕の横で馬鹿みたいにでかい声で
「また来るぞー!!」
と叫んでいたのがつい最近の事のように今でも鮮明に覚えています。
僕はそんな弟を見ながら旅の意味を噛み締め、
心の中でグッと「また来るぞ」と思ったのであります。
これで最大の出会いシリーズ終了です。
で、気になるのが旅の終わりでしょ?
この後、僕らは鹿児島市内、思い出の天文館通りでもう一度歌い、翌日、宮崎に突入。
そこで弟のギターが調子を悪くし弾き語りを続けられない為、旅を終える事にしたのでした。
島の人と触れ合い、皆で何か一つの事をやりたい!と思えるようになった弟は地元に帰るとすぐにバンドを結成。
アマチュアではありましたが各地のライブハウスを転々と出来る実力をつけたのでした。
そして僕はと言うと2年後、バンドが順調な弟を置いて一人で一ヶ月間、北海道の旅をする事になるのです。
松原さんとの出会いが沖縄、そして沖永良部島へと連れていってくれました。そしてその島で多くの人と出会い、特に田中さんには大変お世話になりました。
さて皆さんがきっと抱いているであろう疑問、
『その二人と君らは今どうなってるんだ?』
ご心配なく。もちろん、今でも交流があります。
「ふっ」と思い出した時に「よぅ」と言ってくれます。
今年の年賀状で松原さんから結婚の報告がありました。
遠く離れていてもそこには「ふっ」「よぅ」の関係が今でも成り立っているんです。
田中さんからは「息子が中学生になって訳のわからん音楽を聴くようになって・・・私にはもうついていけないわ」なんて電話がきたり。
娘が高校進学で島を離れ寮生活をしている時には母親・父親には素直に出来ないであろう相談を僕が聞いてあげる事もありました。
そのうち、息子あたりがきっと僕の所に遊びに来る日があるんじゃないかと心待ちにしているんです。
その時は思いっきり、恩送りをしてやろうと企んでおります。
さて長編が終了しました。
読んでくれた皆様、ありがとうございました。
次回は・・・何を書こうかな・・・
それも気まぐれと言う事で。
2007年01月22日
最大の出会い〜その4〜
〜その3〜の続き。3を読んで居ない方は↓へ。
さて沖永良部島にやってきた兄弟。まず頼れる人は松原さんしかいません。1人暮らしのお宅に居候生活を開始。毎朝、仕事に出かけるご主人様を見送ることも無く、ひたすら眠っている二人。そんな無礼者も笑って許してくれるご主人様。晩御飯を用意するのが使命。しかしそれも時々。
そんな日々をダラダラ過ごしていたわけではありません。
せっかく連れてきてもらった沖永良部島。
しかもここに来る条件は「島の小学生に夢を語る」です。
ただ、それはその場所がセッティングされないと出来ないわけでいきなりそこらへんを歩いている小学生を捕まえて語るわけにもいかず。松原さんの交渉にかかっていたわけです。
結論から言ってしまうと「島の小学生に夢を語る」チャンスはありませんでした。
まぁいくら島だと言ってもそこは公務。大人の事情もあったんだと思います。
「じゃーお前らは何をしてたんだ?島に来て居候してたんが良い出会いか?」
と、お思いの方もいらっしゃるでしょう。あい、すいません。そんなわけじゃーございません。しっかりこの島でも路上ライブを決行したのです。そこにも出会いの数々がありました。
島に着いて数日、松原さんに連れられ島の子供達に本物を見せたいと言う先生方の集まりのようなものに我々も顔を出し近々開催される「マジックショー」の設営準備(はさみで切ったりするだけでしたけど)を手伝い始めました。
そこで出会った女性が田中さんと言う幼稚園の先生。うちらの母ちゃんよりは若いけどうちらの中では「エラブの母」的な存在になっていくわけですが何をしてくれたかと言うと、まーそれはとにかく兄弟のマネージャーみたいなもんですよ。歌う場所とか時間とか送り迎えとか飯用意してくれたりとか。
「あんたらどこで歌うの?」
「あのクレープ屋さんの前なら歌わしてくれるって言ってるから挨拶行くよ」
「明日は何時に行くね?」
「何時まで歌うの?」
「あんたら松原さんとこじゃロクなもん食わせてもらえてないでしょ?これ食べなさい」
そんな言葉を今でも覚えてます。
一つ一つの言葉に温もりがありました。
さてここのブログのタイトル「恩送り」。
実はこの言葉を知ったのは最近ですがその言葉よりもその精神を教えてくれたのもこの田中さんでした。
彼女はおばあちゃんにその精神を学んだそうです。
我々になぜそんなに優しくしてくれるのか、僕の抱いていた疑問を解決してくれたのがその精神でした。
「島に来た人は厚くおもてなしをする。そうすると自分たちの子供や島の人たちが外へ出て行った時に必ず暖かく迎えてもらえる」
自分に返ってくる事を期待しているわけではなく、島の事、子孫の事を。
そんな気持ちが田中さんの心に受け継がれているのだ。
「恩送り」って言葉は知らなかったけどその時、自分もそういう人間でありたいと思ったのは確かだ。
話が核心を突きすぎて話の流れがそれてしまった・・・
そんなわけで我々兄弟は島に唯一あったクレープ屋さんの前で歌う事になった。
定休日の月曜日以外、島にいる間はほぼ毎日そこで歌った。クレープ屋さんのお姉さん達もすごく暖かくて毎日クレープとコーヒーをおごってくれたし時々ビールもいただいた。その代わりに僕らはお姉さんのリクエストの浜田省吾も歌った。
さて島のクレープ屋さんにはうわさを聞きつけた高校生達が来てくれるようになって毎日わいわい楽しく歌いました。
リクエストを受けても歌えない歌ばかりでしたがそれでも常連になってくれる子達もいたなぁ。皆、元気にやっているだろうか。
歌い終わると我々は我が家のように松原宅に帰り毎晩酒を呑んだ。
島の居酒屋にもよくつれてってもらったしそんな場所でも歌わせてもらった。突然のヨソモノをどの人達も暖かく迎えてくれた。酒を呑みにつれてってくれる人、ご祝儀をくれる人、手段は違えど温もりは変わらなかった。
とにかく色んな人に出会ったし歌ったししゃべった。
もちろんダラダラもした。20日近く滞在したのだから。
さて、ちょっと仕事をサボりすぎたのでまたしてもここらで。
次回がこの出会いのシメかな。
〜続く〜
さて沖永良部島にやってきた兄弟。まず頼れる人は松原さんしかいません。1人暮らしのお宅に居候生活を開始。毎朝、仕事に出かけるご主人様を見送ることも無く、ひたすら眠っている二人。そんな無礼者も笑って許してくれるご主人様。晩御飯を用意するのが使命。しかしそれも時々。
そんな日々をダラダラ過ごしていたわけではありません。
せっかく連れてきてもらった沖永良部島。
しかもここに来る条件は「島の小学生に夢を語る」です。
ただ、それはその場所がセッティングされないと出来ないわけでいきなりそこらへんを歩いている小学生を捕まえて語るわけにもいかず。松原さんの交渉にかかっていたわけです。
結論から言ってしまうと「島の小学生に夢を語る」チャンスはありませんでした。
まぁいくら島だと言ってもそこは公務。大人の事情もあったんだと思います。
「じゃーお前らは何をしてたんだ?島に来て居候してたんが良い出会いか?」
と、お思いの方もいらっしゃるでしょう。あい、すいません。そんなわけじゃーございません。しっかりこの島でも路上ライブを決行したのです。そこにも出会いの数々がありました。
島に着いて数日、松原さんに連れられ島の子供達に本物を見せたいと言う先生方の集まりのようなものに我々も顔を出し近々開催される「マジックショー」の設営準備(はさみで切ったりするだけでしたけど)を手伝い始めました。
そこで出会った女性が田中さんと言う幼稚園の先生。うちらの母ちゃんよりは若いけどうちらの中では「エラブの母」的な存在になっていくわけですが何をしてくれたかと言うと、まーそれはとにかく兄弟のマネージャーみたいなもんですよ。歌う場所とか時間とか送り迎えとか飯用意してくれたりとか。
「あんたらどこで歌うの?」
「あのクレープ屋さんの前なら歌わしてくれるって言ってるから挨拶行くよ」
「明日は何時に行くね?」
「何時まで歌うの?」
「あんたら松原さんとこじゃロクなもん食わせてもらえてないでしょ?これ食べなさい」
そんな言葉を今でも覚えてます。
一つ一つの言葉に温もりがありました。
さてここのブログのタイトル「恩送り」。
実はこの言葉を知ったのは最近ですがその言葉よりもその精神を教えてくれたのもこの田中さんでした。
彼女はおばあちゃんにその精神を学んだそうです。
我々になぜそんなに優しくしてくれるのか、僕の抱いていた疑問を解決してくれたのがその精神でした。
「島に来た人は厚くおもてなしをする。そうすると自分たちの子供や島の人たちが外へ出て行った時に必ず暖かく迎えてもらえる」
自分に返ってくる事を期待しているわけではなく、島の事、子孫の事を。
そんな気持ちが田中さんの心に受け継がれているのだ。
「恩送り」って言葉は知らなかったけどその時、自分もそういう人間でありたいと思ったのは確かだ。
話が核心を突きすぎて話の流れがそれてしまった・・・
そんなわけで我々兄弟は島に唯一あったクレープ屋さんの前で歌う事になった。
定休日の月曜日以外、島にいる間はほぼ毎日そこで歌った。クレープ屋さんのお姉さん達もすごく暖かくて毎日クレープとコーヒーをおごってくれたし時々ビールもいただいた。その代わりに僕らはお姉さんのリクエストの浜田省吾も歌った。
さて島のクレープ屋さんにはうわさを聞きつけた高校生達が来てくれるようになって毎日わいわい楽しく歌いました。
リクエストを受けても歌えない歌ばかりでしたがそれでも常連になってくれる子達もいたなぁ。皆、元気にやっているだろうか。
歌い終わると我々は我が家のように松原宅に帰り毎晩酒を呑んだ。
島の居酒屋にもよくつれてってもらったしそんな場所でも歌わせてもらった。突然のヨソモノをどの人達も暖かく迎えてくれた。酒を呑みにつれてってくれる人、ご祝儀をくれる人、手段は違えど温もりは変わらなかった。
とにかく色んな人に出会ったし歌ったししゃべった。
もちろんダラダラもした。20日近く滞在したのだから。
さて、ちょっと仕事をサボりすぎたのでまたしてもここらで。
次回がこの出会いのシメかな。
〜続く〜
2007年01月21日
最大の出会い〜その3〜
〜その2〜の続き。2を読んで居ない方は↓へ。
鹿児島は天文館通りでまさかの沖縄行きが決定。
そっから松原さんが「車の中で寝てる?ダメダメそんなの。今日はホテルとってやるから。」つって鹿児島市内に詳しい八汐さんがパッとその日の我々の宿をとってくれた。
タクシーで我々が泊まるホテルにチェックイン。前払いでバッチリお金も払ってくれてお二人は違うホテルへ。
この時、酔ってはいたものの意識はハッキリしていたものだからこの二人も明日の朝には忘れてるんじゃないだろうかとか部屋が別々だったから弟は果たして無事だろうかとかそんな下らん事も考えたりして。
さて次の日、朝起きてみるとバッチリ松原さんから連絡があったもんだから一安心。我々を昨夜と変わらぬ笑顔で迎えてくれました。
そして旅行会社へ行き航空券を手配。
我々の愛車を八汐さんが働く紳士服屋の別の店に止めさせてもらいタクシーとバスを乗り継ぎ鹿児島空港へ。
恥ずかしながらそれが初の飛行機体験。宙に浮くあの変な感じを味わいつつあっと言う間の1時間。
気が付けば沖縄、那覇空港。
昨日までは想像も出来なかった場所に来てしまった事を夢でも見ているかのように受け止めたのでした。
そこからの沖縄ライフについてはちょっと割愛。
何をしたかだけさらっと紹介しますと・・・
国際通りをブラブラ、公設市場で初ゴーヤチャンプルーを食べ、
夜は喜納昌吉さんの店で琉球音楽に触れ、
二日目にはレンタカーで沖縄を巡り。首里城、北谷、万座ビーチなどグルグル、夜は国際通りで路上ライブ。米兵からもチップをもらい沖縄の路上人から生ビールをいただいたり。
沖縄の2泊3日を満喫したのでした。
この時にはもう松原さんと我々の関係も従兄弟のお兄ちゃんぐらいの感じにはなっていて仲の良い親類的な感じ。
そして我々は沖縄本島からフェリーに乗り、松原さんが勤める小学校がある沖永良部島に向かいました。
フェリーで6時間。あっと言う間の船旅。
心暖まる人達との出会いの宝庫、沖永良部島にいよいよ足を踏み入れたのです。
一気に書きたいところではありますが仕事があるので・・・
〜その4に続く〜
鹿児島は天文館通りでまさかの沖縄行きが決定。
そっから松原さんが「車の中で寝てる?ダメダメそんなの。今日はホテルとってやるから。」つって鹿児島市内に詳しい八汐さんがパッとその日の我々の宿をとってくれた。
タクシーで我々が泊まるホテルにチェックイン。前払いでバッチリお金も払ってくれてお二人は違うホテルへ。
この時、酔ってはいたものの意識はハッキリしていたものだからこの二人も明日の朝には忘れてるんじゃないだろうかとか部屋が別々だったから弟は果たして無事だろうかとかそんな下らん事も考えたりして。
さて次の日、朝起きてみるとバッチリ松原さんから連絡があったもんだから一安心。我々を昨夜と変わらぬ笑顔で迎えてくれました。
そして旅行会社へ行き航空券を手配。
我々の愛車を八汐さんが働く紳士服屋の別の店に止めさせてもらいタクシーとバスを乗り継ぎ鹿児島空港へ。
恥ずかしながらそれが初の飛行機体験。宙に浮くあの変な感じを味わいつつあっと言う間の1時間。
気が付けば沖縄、那覇空港。
昨日までは想像も出来なかった場所に来てしまった事を夢でも見ているかのように受け止めたのでした。
そこからの沖縄ライフについてはちょっと割愛。
何をしたかだけさらっと紹介しますと・・・
国際通りをブラブラ、公設市場で初ゴーヤチャンプルーを食べ、
夜は喜納昌吉さんの店で琉球音楽に触れ、
二日目にはレンタカーで沖縄を巡り。首里城、北谷、万座ビーチなどグルグル、夜は国際通りで路上ライブ。米兵からもチップをもらい沖縄の路上人から生ビールをいただいたり。
沖縄の2泊3日を満喫したのでした。
この時にはもう松原さんと我々の関係も従兄弟のお兄ちゃんぐらいの感じにはなっていて仲の良い親類的な感じ。
そして我々は沖縄本島からフェリーに乗り、松原さんが勤める小学校がある沖永良部島に向かいました。
フェリーで6時間。あっと言う間の船旅。
心暖まる人達との出会いの宝庫、沖永良部島にいよいよ足を踏み入れたのです。
一気に書きたいところではありますが仕事があるので・・・
〜その4に続く〜
2007年01月18日
最大の出会い〜その2〜
〜その1〜の続き。1を読んで居ない方は↓へ。
女性の呼びかけに振り返る斉藤和義さん。
ギターを持っている僕を見て映画館前で歌っていた奴だと気が付いた様子。周りの方々(伊藤広規さんや小田原豊さんだったような…)が「(和義さんが)そこは違うんだよなぁって言ってたよ(笑)」などと囃し立てる中、僕はもう緊張で何がなんだかわからない状況でしたがとにかく握手だけはしてもらった記憶があります。そして和義さんには「俺より上手くなったら殺す」という有り難いお言葉をいただき今でもそれは忠実に守っております。
たった5分ぐらいの会話だったと思いますが憶えてません。
喜びの中、また弟がいる場所に戻りました。
あ、そうそう。和義さんに会いたい一心で弟を置いて兄ちゃんはダッシュしてしまったのでした。
もちろん弟には怒られましたが。
そんな出会いもありつつ。
「やっぱ鹿児島で歌って良かった」
「あの時のじゃんけんのおかげだ」
などとこの時、既に素晴らしい出会いをしてしまった僕ら。
この次にさらに大きな出会いがあるとは思ってもいませんでした。
さてさてそこからまた歌い始め、通りも酔って陽気な人達が増えてくる頃。僕らと同年代の若者がやはり陽気に近寄って来て「俺らが客寄せしてやるよ〜」と通行人にやたらと声をかけ始めました。
しばらくするとその若者の呼びかけに二人の男性が足を止めてくれました。
「どんな歌歌うの?」「山崎まさよしのシチューの歌やってよ」なんて会話をしつつ歌いつつ。多分30分も経たないうちにその二人の男性が「ろくなもん食ってないだろう?おごってやるから飲みに行くぞ」と誘ってくれたのでした。(若者は知らぬ間にいなくなってました笑)
昨晩と同じぐらいの稼ぎを得た僕らはその男性二人の風貌に一抹の不安も感じる事無くその誘いを快諾。すぐにギターを片付け近くの居酒屋に場所を移動。「好きな物を食え」との暖かい言葉に若干遠慮をしながらも、その遠慮に気付き色々と注文してくれる二人。貧乏旅をしていてこんなに嬉しい事は無いと思いながらいただきました。
飯と酒をいただきながら話をした中でわかった事はこの男性二人の名前。
松原さんと八汐さん。二人は種子島出身の同級生で久しぶりに会って鹿児島市内で飲んでいた所に僕らが歌っていたということ。
八汐さんは鹿児島市内のチェーンの紳士服店の店長。松原さんは沖永良部島と言う島の小学校の先生だと言うこと。
そして僕らが兄弟で旅をしていることに感銘を受けてくれたこと。
正直、これだけわかっていればもう最高の出会いなんです。
地元から1000Km以上離れた地で暖かい心に触れられた事でもう充分だったんです。しかし更に嬉しい言葉を松原さんが言い出しました。
「よし!俺が沖縄連れてってやる
条件はお前らが沖永良部島に来て子供達に夢を語る事
どうだ?行くか?」
嘘のような本当の話。まるでテレビの中の事のよう。電波少年か!?
色んな思いが頭をぐるぐる・・・
しかし答えはもちろん・・・
「行きます!」
こうして僕らは素晴らしい出会いと共に沖縄へ行くことが決まったのでした。
〜3へ続く〜
女性の呼びかけに振り返る斉藤和義さん。
ギターを持っている僕を見て映画館前で歌っていた奴だと気が付いた様子。周りの方々(伊藤広規さんや小田原豊さんだったような…)が「(和義さんが)そこは違うんだよなぁって言ってたよ(笑)」などと囃し立てる中、僕はもう緊張で何がなんだかわからない状況でしたがとにかく握手だけはしてもらった記憶があります。そして和義さんには「俺より上手くなったら殺す」という有り難いお言葉をいただき今でもそれは忠実に守っております。
たった5分ぐらいの会話だったと思いますが憶えてません。
喜びの中、また弟がいる場所に戻りました。
あ、そうそう。和義さんに会いたい一心で弟を置いて兄ちゃんはダッシュしてしまったのでした。
もちろん弟には怒られましたが。
そんな出会いもありつつ。
「やっぱ鹿児島で歌って良かった」
「あの時のじゃんけんのおかげだ」
などとこの時、既に素晴らしい出会いをしてしまった僕ら。
この次にさらに大きな出会いがあるとは思ってもいませんでした。
さてさてそこからまた歌い始め、通りも酔って陽気な人達が増えてくる頃。僕らと同年代の若者がやはり陽気に近寄って来て「俺らが客寄せしてやるよ〜」と通行人にやたらと声をかけ始めました。
しばらくするとその若者の呼びかけに二人の男性が足を止めてくれました。
「どんな歌歌うの?」「山崎まさよしのシチューの歌やってよ」なんて会話をしつつ歌いつつ。多分30分も経たないうちにその二人の男性が「ろくなもん食ってないだろう?おごってやるから飲みに行くぞ」と誘ってくれたのでした。(若者は知らぬ間にいなくなってました笑)
昨晩と同じぐらいの稼ぎを得た僕らはその男性二人の風貌に一抹の不安も感じる事無くその誘いを快諾。すぐにギターを片付け近くの居酒屋に場所を移動。「好きな物を食え」との暖かい言葉に若干遠慮をしながらも、その遠慮に気付き色々と注文してくれる二人。貧乏旅をしていてこんなに嬉しい事は無いと思いながらいただきました。
飯と酒をいただきながら話をした中でわかった事はこの男性二人の名前。
松原さんと八汐さん。二人は種子島出身の同級生で久しぶりに会って鹿児島市内で飲んでいた所に僕らが歌っていたということ。
八汐さんは鹿児島市内のチェーンの紳士服店の店長。松原さんは沖永良部島と言う島の小学校の先生だと言うこと。
そして僕らが兄弟で旅をしていることに感銘を受けてくれたこと。
正直、これだけわかっていればもう最高の出会いなんです。
地元から1000Km以上離れた地で暖かい心に触れられた事でもう充分だったんです。しかし更に嬉しい言葉を松原さんが言い出しました。
「よし!俺が沖縄連れてってやる
条件はお前らが沖永良部島に来て子供達に夢を語る事
どうだ?行くか?」
嘘のような本当の話。まるでテレビの中の事のよう。電波少年か!?
色んな思いが頭をぐるぐる・・・
しかし答えはもちろん・・・
「行きます!」
こうして僕らは素晴らしい出会いと共に沖縄へ行くことが決まったのでした。
〜3へ続く〜
2007年01月16日
最大の出会い〜その1〜
誰との出会いから書けば良いのか決められなかったからいきなり自分の人生の中で最大級とも言える事件を引き起こしてくれた人との出会いから書こうと思う。
事件とは言ったけどこれはあくまでも良い方での事件。
時はさかのぼる事、7年前。
僕は実弟と二人、路上で歌いながら全国を回ろうと4月に家を出てまず西に向かいました。
浜松⇒名古屋⇒岐阜⇒京都⇒大阪⇒愛媛⇒高知⇒徳島⇒香川⇒熊本⇒鹿児島とこの間にも色々な人に出会い、大変お世話になりました。(それは追々紹介しましょう)
さて事件が起こったのは鹿児島市。
初日。天文館通りで路上が盛んだと言う情報を入手し行ってみる事に。
しかしながら我々はヨソモノ。
「そこはダメだ」「どいてくれ」など他業種(歌い手さん以外の路上人)の方から追いやられしょぼくれながら大きな道を挟んだ夜は暗くなってしまう商店街に安住の地を見つけ歌い出したのです。
たまに立ち止まる人もいたけどそれほど魅力を感じる事ができず兄弟の中ではやりきれない気持ちで「クソッタレ鹿児島」な気分でその日歌う事を止め、車に戻りました。
やりきれないまま車を停めておける場所(道の駅など)を見つけ就寝することに。この旅はずっとそんな車中泊の旅でした。
夜。全国を回る想いで家を出たがやはり貧乏旅。沖縄に渡れる旅費などあるわけがなく。二人は次の目的地宮崎に向かうかどうか悩んでいました。「クソッタレ鹿児島」で終わって良いのか。この時、あまりに悩み結果が出ない二人がとった行動が「じゃんけん」。
どっちかが勝ったら宮崎へ。逆なら鹿児島でもう一晩。
結果は鹿児島。
次の日の夕方、またしても天文館通りへ。
どうしても天文館通りで歌いたかった二人は大丈夫そうな場所を探し歌いました。ギターケースを広げ投げ銭をいただく。ダンボールで看板を作り自分達がどこから来たのかアピール。このアピールのお陰でこの晩は下手なバイト以上の稼ぎを得ることができ一晩にして崩れた鹿児島のイメージをまた一晩で取り戻す事ができたのでした。
そして翌日。
2日目の盛況ぶりが忘れられず。「もういっちょやってくか」とこの旅では初の3日間同じ土地での路上を決行。
そこでやっと皆さんお待ちかねの出会いがあったのです。
その晩は映画館の前辺りに場所を取り歌い始めると本日も好調。
天文館通りは我々兄弟の味方でした。
しばらくするとそこへ何とも怪しい風貌のおじさんがやってきました。
まもなくしてそのおじさんが「良い店があるから酒を飲みに行こう」と誘ってきました。貧乏旅の我々にとってタダ飯、タダ酒は決して悪い話ではなかったのですがその時の我々はまだ歌いだして間もないしここ天文館は良い稼ぎになる。そしてこのおじさんはちょっと怪しそうだし・・・と言う事で丁重にお断りをしたのでした。
ちょうどその頃、僕は斉藤和義さんにはまっていて鹿児島で初めて彼の歌を歌ってみたりしていたのでした。
それをたまたま聞きつけた和義ファンを名乗る女性が現れ「歌って下さい」なんて言われまだ慣れていない曲を一生懸命歌っていたのですが歌っている途中、女性が突然居なくなり、曲が終わった頃にまた戻ってくると僕にこう言いました。
「斉藤さんあっちに居るけど会いたい?」
言っている意味がしばらくわかりませんでしたがどうやら斉藤和義さんはツアーで鹿児島に来ていたようで僕が歌っていた目の前の映画館で映画を見ていたそうです。
もちろん会いたい僕はギターを持ったまま天文館を走りました。
女性が「斉藤さん!」と呼び止めるとまさに本人がそこにいるではありませんか。
っと言うわけでちょっと余分な所が多すぎで長くなってしまったので今回はここまで。次回へ続く・・・
事件とは言ったけどこれはあくまでも良い方での事件。
時はさかのぼる事、7年前。
僕は実弟と二人、路上で歌いながら全国を回ろうと4月に家を出てまず西に向かいました。
浜松⇒名古屋⇒岐阜⇒京都⇒大阪⇒愛媛⇒高知⇒徳島⇒香川⇒熊本⇒鹿児島とこの間にも色々な人に出会い、大変お世話になりました。(それは追々紹介しましょう)
さて事件が起こったのは鹿児島市。
初日。天文館通りで路上が盛んだと言う情報を入手し行ってみる事に。
しかしながら我々はヨソモノ。
「そこはダメだ」「どいてくれ」など他業種(歌い手さん以外の路上人)の方から追いやられしょぼくれながら大きな道を挟んだ夜は暗くなってしまう商店街に安住の地を見つけ歌い出したのです。
たまに立ち止まる人もいたけどそれほど魅力を感じる事ができず兄弟の中ではやりきれない気持ちで「クソッタレ鹿児島」な気分でその日歌う事を止め、車に戻りました。
やりきれないまま車を停めておける場所(道の駅など)を見つけ就寝することに。この旅はずっとそんな車中泊の旅でした。
夜。全国を回る想いで家を出たがやはり貧乏旅。沖縄に渡れる旅費などあるわけがなく。二人は次の目的地宮崎に向かうかどうか悩んでいました。「クソッタレ鹿児島」で終わって良いのか。この時、あまりに悩み結果が出ない二人がとった行動が「じゃんけん」。
どっちかが勝ったら宮崎へ。逆なら鹿児島でもう一晩。
結果は鹿児島。
次の日の夕方、またしても天文館通りへ。
どうしても天文館通りで歌いたかった二人は大丈夫そうな場所を探し歌いました。ギターケースを広げ投げ銭をいただく。ダンボールで看板を作り自分達がどこから来たのかアピール。このアピールのお陰でこの晩は下手なバイト以上の稼ぎを得ることができ一晩にして崩れた鹿児島のイメージをまた一晩で取り戻す事ができたのでした。
そして翌日。
2日目の盛況ぶりが忘れられず。「もういっちょやってくか」とこの旅では初の3日間同じ土地での路上を決行。
そこでやっと皆さんお待ちかねの出会いがあったのです。
その晩は映画館の前辺りに場所を取り歌い始めると本日も好調。
天文館通りは我々兄弟の味方でした。
しばらくするとそこへ何とも怪しい風貌のおじさんがやってきました。
まもなくしてそのおじさんが「良い店があるから酒を飲みに行こう」と誘ってきました。貧乏旅の我々にとってタダ飯、タダ酒は決して悪い話ではなかったのですがその時の我々はまだ歌いだして間もないしここ天文館は良い稼ぎになる。そしてこのおじさんはちょっと怪しそうだし・・・と言う事で丁重にお断りをしたのでした。
ちょうどその頃、僕は斉藤和義さんにはまっていて鹿児島で初めて彼の歌を歌ってみたりしていたのでした。
それをたまたま聞きつけた和義ファンを名乗る女性が現れ「歌って下さい」なんて言われまだ慣れていない曲を一生懸命歌っていたのですが歌っている途中、女性が突然居なくなり、曲が終わった頃にまた戻ってくると僕にこう言いました。
「斉藤さんあっちに居るけど会いたい?」
言っている意味がしばらくわかりませんでしたがどうやら斉藤和義さんはツアーで鹿児島に来ていたようで僕が歌っていた目の前の映画館で映画を見ていたそうです。
もちろん会いたい僕はギターを持ったまま天文館を走りました。
女性が「斉藤さん!」と呼び止めるとまさに本人がそこにいるではありませんか。
っと言うわけでちょっと余分な所が多すぎで長くなってしまったので今回はここまで。次回へ続く・・・

